花梨は、マフラーに顔を埋めて歩く。 時折吹く北西の風は冷たく乾いていて、鼻腔から気管の奥まで入り込んでくる。 「う〜〜〜寒いっ!!」 独り言でも言っていなければ耐えられないほど、今日の風は身に沁みる。 こんな突風に遭うと、ふと過ぎる(よぎる)のは、小さく遠くなっていく麦藁帽子のこと。季節は、今と真逆の夏。暑い盛りだったと思う。山間(やまあい)の緑―――濃く深い色の中に、麦藁帽子は沈んでいった。 「今頃あの麦藁帽子に―――雪が積もっているかもしれないね」 寒さに耐えようとして、夢で聞いた言葉を口にしてみる。 ああ、そうだ。 こんな詩があったなと思い出す。教科書に載っていたから覚えている。 「母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ…」(*) 言ってみてくすくすと一人笑いする。小さい自分は、この詩の少年と同じことをしたのだ。碓氷峠から麦藁帽子を落としてしまった。手を伸ばしたけれど、到底届かなくて。哀しいような悔しいような、けれど、サイレントムービーを見ているような現実感のなさ。暗緑の中へ消えていく帽子は、一枚の絵の中の出来事のよう。 それに、夢というのは斯くも好い加減でご都合主義で脈絡の無いものか。 実際の詩では、麦藁帽子に積もるのは秋の濃い霧だったはず。今朝方の夢では、雪が積もっているはずと、誰かが言った。寒い朝に見た夢だったから、花梨の頭の中で勝手に雪に変換されていたのだろう。 碓氷峠というのは、亡くなった母の実家の近くだ。この思い出は、きっと其処へ出かけた折のことだったのだろう。随分昔のことを夢に見たな、と花梨は空を見上げる。 強い風に重たい雲などは取り払われてしまい、高い青空に、淡く鱗雲が刷かれている。 (―――遠いな) 冬の空は遠い。雲が薄く遠くて太陽が低いから、余計にその背景の空が遠くに見える。 (―――遠いな) 両親の顔が近頃遠くなってきたように思う。最後の笑顔―――耕太郎が家にやってきた日の笑顔―――それさえ輪郭が曖昧になってきていた。 忘却というのは、切ない。 指の間から砂が零れ落ちるようにサラサラと、忘却の名の下に大事なものが消えてゆく。柔らかく優しい記憶ほど、その輪郭は曖昧で消えやすい。両親を亡くしたときのあの喪失感はまだ生々しく思い出せるというのに、どうして、この幸せな記憶は簡単に消えてしまおうとするのだろう? 握った指の間から落ちる砂には生命が無い。それを哀しいと詠んだ句があった。それと同じなのだろうか? いくら温かく優しい記憶であっても、それは記憶でしかなく―――生命の宿るものではないから。 幸せな記憶は、まるで、砂上の楼閣のように儚く心許無い。 「―――遠いな」 声にして空に向かって呟く。 どっと音を立てて風が吹いた。 小さな声は、冷たい季節風に浚われていく。 きっと何処へも届かない。 強い風に砕かれて、散って、この冷たい空気の中を漂うだけ。 ** ** ** (*) 西條八十 『ぼくの帽子』 の一節。 |