麦 藁 帽 子 (3)




 「―――私はいつでも構わない」
 「そう………どうしようかな」
 塗り物の蓋を開けながら、花梨は、首を傾げて考え込む。
 ふわりと、醤油と味醂の香りが立ち上った。祖母の利代が持たせてくれたサトイモと鶏肉の煮物。煮崩れもなく、ほどよい色と照り。流石、利代殿だな、と呟きながら泰継が箸を入れた。
 「年内に行けそう?」
 「―――ああ。修士課程の1年目というのは存外暇なものだ…」
 「ふーん」
 大学生にもなっていない花梨には、大学院生の生活というのが今一ピンと来ない。
 泰継は、人工知能を研究する研究室に所属して、言語認識に関する技術を専門としている。彼に言わせると腐れ縁の予感がするという同級生2人も同じ研究室に所属し、それぞれ物体認識と音声認識に関する技術を専門としており、その3人で1つのチームとされていた。そこにスポンサーがついて大学を通して年間一千万円もの助成金が下りている。つまりは、期待の星というやつなのではないだろうか、と花梨は思うのだけれど、当の本人は至って暢気に過ごしていて国内の学会にしか出ようとしない。旅費も滞在費もすべて出してもらえる恵まれた環境にありながら、他の学生と違って海外の学会へは全く興味を示さず、只々彼の世界は花梨中心に回っていた。
 「これも道楽のようなものだから。メクジラ立ててやるものではない。」
 だいたいこの歳で曾孫のような者たちと机を並べて過ごすとは思いもよらなかったからなぁなどと言って、サトイモを口に入れる。
 「―――それにしては、随分本気じゃない」
 今だって、何やら英文に目を通しているのだ。
 「ボケるよりはましだろう?」
 「―――もう」

 サンプリング定理というのがあるのだと、以前、教えてくれた。
 アナログからデジタルへ至るときに、多くのものが省略されるのだと。人の目には省略されたことなどわからない程度に、けれど、多くのものが切り捨てられるのだと。
 ―――その中に、本当は大事なものが入っているのだろう。
 偽者がいつまでも偽者でしかなく、人が生命を、生きていないものから創り出せないのは、きっとそういうことなのだろう―――。
 生きているものを繋ぎとめることは如何にかできても、無から本物の生命を創り出すことは適わない。だから、偽者であることを前提に、一つ線を引いた上で、人は偽の生命を創ることに労を費やす。自らを『人の亜種』であると言う彼は、そんなふうにポツリと花梨に語った。
 高校生の頭でも理解できるように、至極噛み砕いてサンプリング定理の数式を意訳してくれたようだった。
 それでも、道楽と呼ぶには酷く哲学的で重い課題に彼は取り組んでいると花梨には思えた。

 「ねぇ、泰継さん」
 「なんだ?」
 「記憶って、どうして消えてしまうのかしら」
 「―――」
 「なんだか………遠いの」
 「なにが?」
 「両親の顔が」
 「………」
 「遠くなっていくのが分かるの。でも、私はそれに追いつけない」

 忘却を持たない彼に、こんなことを言うのは大人気ない。何一つ欠けることなく積み上げられた記憶に、彼がどれほど苦しめられたのか知っている。つい口を衝いて出てしまった言葉に、花梨は少し後悔した。

 「―――ごめんなさい。こんなこと言って」
 「お前が謝る必要など、何処にも無い」
 手が差し出されて、戸惑っていると、強く抱き寄せられた。
 「花梨」
 「………はい」
 「消えてゆくことを自覚し、それに痛みを覚える記憶というのは―――特別に大切な記憶なのだろう」
 「―――」
 「きっと、それは忘却とは言わないのだ」
 「―――え?」
 「お前の中に染み込んで―――そうだな、恐らく食べ物がお前の血や肉となるように、その記憶も『消化』された、ということなのだろう」
 「消化―――?」
 「そうだ。例えばその記憶にある温かさや優しさをごく自然に誰かに分け与えることができるほど、それがお前のものになったということ。お前の中に溶けてしまったのだから消えてしまうように思うだけだ。或いは、消化することを忘却と呼ぶのかもしれないが―――お前の心配する物忘れとは大いに違うものだから、案ずるな。親御の想いが、お前のものになったのだから」
 普段無口なくせに。
 溢れるような優しさと愛情を、彼はきちんと伝えてくれる。
 柔らかな声と温かな瞳と抱き締めるその腕で、余すところ無く。
 そうして、彼が紡ぐ言葉は花梨の胸に沁み込んで来る。決して難しい言葉は使わずに、花梨が解るように噛み砕いて。言葉を尽くす、というのとも違う。彼は、花梨に届く言葉を間違いなく選ぶことができるのだ。
 「ありがとう―――泰継さん」
 花梨もそっと彼の背に腕を回す。やっぱり、好きだと思った。自分には勿体ないくらい、男前だ。
 「あ…でも―――それって」
 「なんだ?」
 「泰継さんも――――――何かを忘れた?」
 「ああ―――後生大事にしていた師匠の顔が、やはり遠くへ行ってしまったようだ」
 「寂しいね…」
 「まぁ、そうだな………人の成長とは忘却と共にある。我が師も、この不肖の弟子に忘れられて今頃安堵していることであろう」
 くつくつと可笑しそうに笑って、泰継は、花梨の背を撫でる。
 「年の瀬も近くクリスマスだというのに、我々は墓参りだな」
 「―――ほんと。ちっとも若者じゃないね」
 なんだか可笑しくなって、花梨も笑った。

 忘却というのは、切ない。
 けれど、人の成長とは忘却と共にある。
 そこに在る痛みはきっと、その記憶がこの身の内に浸透してくるときにかかる『圧』を痛みとして感じるものなのだ、と彼は言う。
 数学と哲学は紙一重だと聞いたけれど、存外、文学における詩的な表現も数学と近いのかもしれない。彼に言わせれば、数式だって言語の内らしいし。或いは、道楽で生命の境界を探しているから、こんな言葉が出てくるのか。

 人のようで人ではない―――至極曖昧な生命を与えられた彼は、誰よりも優しい。