暦の上ではすっかり春だというのに、気温は一向に上がらなくて。 空は曇天、吹く風は北寄り。吐く息は白く、見上げれば未だ芽吹かぬ木々の枝が、鈍い逆光に濃い陰影をつくっている。 「―――もうすぐだね」 「うん…」 隣には、同じテーブルでカフェオレのカップを大事そうに抱えている年下の親友。もうすぐなのは、“春”ではなくて 「マリッジ・ブルーになったりしないの?」 「え? どうだろう………。お嫁にいくっていうよりは、お婿が来るって感じに近いから……」 あと二週間ほどで、この親友は嫁いでしまう。まだ、たった18歳だというのに。 彼女が言うとおり、実際は“旦那様が彼女の実家で同居”なので“婿殿がやってくる”というのに近いことだけれど。 異界の地でそれそれ凄腕陰陽師だった兄弟(みたいなもの)が、二人がかりでお日柄の好い日を選んでいた。その選んだ「好き日」というのが、もうすぐ。二週間後にやってくる。その日、凄腕陰陽師の弟のほうとこの親友は、お役所に届けを出すことになっていて、慌しいことに、その同じ日にお式も挙げてしまう予定。 兄のほうはわたしの彼氏だから、ずっと4人で仲良く遊んできた。だから余計に実感が湧かなくて、不思議な感じもする。 高校を卒業したばっかりで、プリーツスカートにローファーなんて姿がとっても似合うこの子が…嫁ぐ、なんて。 「そういえば、泰明さんち行った時に、あれ?って思ったんだけど。継さんのお部屋の苔盆栽コレクションが減ってるような気がする」 「うん。最近、こっちの家の中に緑色が増えてきたの…」 「もしかして、花梨ちゃんのところに行くたびに苔持参?」 「…そうかも。引っ越すにしても大して荷物ないからって言ってて、先週ぐらいからかな? こっちにちょこちょこ荷物を持ってきているの」 「そっか…今度は高倉家が苔でいっぱいになるのね……」 「そうなの。変な場所に苔があってほんと驚くから。可笑しいんだよ。下駄箱あけたら、わたしのローファーの横に苔玉あってびっくりしたもん。この前だって、耕太郎の小屋の脇に門松みたいにして苔盆栽が2つチョコンって置いてあったんだから」 「なにそれ、呪詛?」 「あーかーねーちゃん、呪詛はひどいよ! 呪詛みたいに気持ち悪いのと違うんだから」 「はいはい。でもどうせ「気」がどうのこうのって難しいこと言ってたんでしょ?」 「うん…なんか、この苔たちが耕太郎の気に馴染むゆえ此処を希望している、だから ここに置くことにした…だって。それでね、うちの耕太郎には、鉢を蹴飛ばすなって……なんか躾けてるっていうかお願いしてるっていうか命令してるっていうか脅してるみたいな…」 「……電波ね」 「うん…もう慣れちゃったけど……変だよね、陰陽師って」 「あんなに電波なくせに、自分の気持ちにはすごく鈍いから可笑しいよね、あの二人は」 「ほんと…兄弟揃って…」 「きっと、泰明さん寂しがるわ。鈍いから大分経ってから寂しいのに気づくのよ」 泰継さんが高倉さんちにお引越しして、苔盆栽も一つもなくなって、それで、お天気の日にふっと、寂しさに気づくんだと思う。 誰もいない部屋、何にもない部屋のなかには、ただいっぱいの明るさだけがあって。そういうのを見て初めて…寂しいっって気がつくんだと思う。どうせすぐ近くに住んでるとかそういうのと関係なく、いつも居た人が居ない―――誰も居ない何もない明るい部屋は、とてつもない寂しさをつきつけたりする。だから、鈍い泰明さんでも、流石に“寂しい”って気持ちに気づくと思う。 「顔に出ないけど、けっこう仲良しだもんね…泰明さんと泰継さん…」 「…ほんと。兄らしからぬ兄と弟らしからぬ弟で、すっかり上手く暮らしてたよね…」 この寒いのにオープンカフェのテラス席に陣取っている馬鹿者は、わたし達二人ぐらいのもの。焚いてもらったストーブのそば。お店が用意しているブランケットを膝に掛けて二人、温かいカップを両手で包むようにして、慌しい人の波を見遣る。 「ねぇ、あかねちゃん」 「なぁに?」 「私―――泰明さんのことを、お兄ちゃんって呼びたい」 「―――…え”」 がちゃん、と。音を立ててカップを置いてしまった(落とすまでには至らず)。耳を疑いつつ、いっぱいの疑問形を目でビシバシ訴えると、大きな瞳がこっちを心配そうに見ている。 「あ、えっと…い、嫌がる…かなぁ?」 小動物を思わせる、あどけない感じで。 こんな可愛い子に、お兄ちゃんて呼ばれたら、 「―――…泰明さん、照れるだろうけど喜ぶと思うよ?」 可笑しい。 想像して、ちょっと笑ってしまう。きっと彼は、物凄く照れると思う。どうしていいのか分からなくて、仏頂面をするかもしれない。 彼も、多分彼の弟も、他人との間に出来る“あったかい距離感”を前に、どうも立ち竦んでしまうようなところがある。 例えば、かけられた言葉の前で、差し出された手の前で、何が起きたのか飲み込めずに呆然として。それから、心底驚くように目を瞠り嬉しい…かも、って思って。やがて、やっぱり信じられない、自分なんかにっ…て目を伏せて。そういう一連の“心許ない表情”が、二人は驚くほど似ているのを知ってる。彼らは、普通ならさらっと受け取れるものの前で、所在なさげに戸惑って立ちつくしてしまう。 だから、きっと…うん。泰明さんは照れる。 嬉しいくせに、物凄く困る。 どうしていいのか分からなくって仏頂面して、トンチンカンなこと言っちゃうかも。 「…あかねちゃん、ニヤニヤが隠せてないよ。もしかして、からかってる?」 「ううん違う違う。絶対、喜ぶから! だいたいね、継さんの“兄”だからっていつも頑張ってるわりに、肝心の継さんに“兄上”って呼ばれたためしがなの…。初めてじゃないかしら?泰明さんが、“お兄ちゃん気分”を味わうのは。だからものすごく…喜ぶと思うよ?(面白いことになるだろうけど…)」 神様は、ときどき本当に酷い。 親の温かさから彼を引き離してきてしまったこと。 彼を連れてきてしまったことで、彼の優しい弟さんが長い孤独に閉じ込められてしまったこと。 運命の分かれ道で、それぞれが選んできたことが間違っていたとは思わない。誰もが一生懸命、幸せな結果を望んで悩み選びとった道。その先で、こうやって出会えた現在(いま)は、確かに幸福なのだから。 だけど、正しい選択なのに随分な代償だったと思う。 それは、胸が痛くなるほどの。 優しさも温かさも、さらりと受け取ることのできない彼らを見る度に胸が痛くなって、理解する。彼らには、埋めようにも埋められない、欠けてしまった大きなものがあることを。 だからオママゴトだっていい。家族ゴッコでもなんでも。初めは、とてもぎこちなくっても。彼らには人との間にできる温かさにいっぱい触れてほしい。戸惑うことなく受容できるくらい、その温かさに慣れてほしい。 切実に、そう思う。 「変なリアクションするだろうけど、喜ぶはずだよ。だから、じゃんじゃん呼んでやって。『お兄ちゃん』『お兄様』『兄上』…あとは、『アニキ』とか?」 「あかねちゃん、『アニキ』はさすがに変すぎだよ…」 「あ、ほんとに。貫禄が足りてない。似合わなすぎ…」 二人して、ぶっと噴出す。 やや短気で俄然幼い「兄」と、落ち着いていて少々後ろ向きな「弟」。兄は「兄」と言うには、貫禄が足りなくて。弟は「弟」と言うには、可愛いげが足りなくて。だけど、兄も弟もものすごく優しいひとで。賢いのに、いつまでたってもトンチンカンで。 純粋で。驚くほど不器用で。ひとりで生きていくには、二人とも、心許ないくらい何かが欠けているひとで。 (―――…ああ、やっぱり) あの二人は出会うべくして出会ったんじゃないのかなぁ、きっとそう。恋の先にある愛とは違う。もっと穏やかで、過ぎてゆく日常を淡くとりまく“祈り”のような、ささやかで、空気みたいにゆかしいもの―――そんな別の愛情も知るために。 いろんな“好き”に触れて、いろんな“好き”を知って、そういう気持ちをいっぱい抱えて、そうやって彼らの心も彩られていくの。知らなかった彩を獲得するのかもしれないし、頑なに暗かったところを優しく包んでぼやかしていく彩を獲得するのかもしれない。 ごく普通の『人』である私たちと何にも変わらない過程で、彼らは欠落していたものを確かに埋めていく。それが“大切なものを見つける”っていうことなのかもしれない。 「―――花梨ちゃん」 「ん?」 「本当にありがとうね…」 「え? 何が?」 「だって、100年越しの家族愛が実現したのって花梨ちゃんのお陰よ。よくぞ、継さんを拉致って来てくださいました」 「―――んぐっ」 さっき笑っていたと思ったら…今度は一生懸命、タルトを突っついていて。ほおばったタルトを飲み下せずに、もごもごと何か言おうとするのが可笑しい。冬眠準備で忙しいシマリスが大慌てしているみたい。 タルト盗ったりしないからゆっくりお食べ、とシマリスみたいな頬っぺたの彼女にカフェオレのカップを差し出すと、 「あかねちゃん、前もおんなじこと言った」 「そうだっけ?」 「そうだよ〜。それに、あかねちゃんも同じでしょう? あかねちゃんだって…年端もゆかない泰明さんを誘拐してきたんでしょ?」 だなんて!(怒) けほけほ咳き込みつつカフェオレをこくっと飲みつつ…とっても人聞きの悪いことを、さくっと言いやがった、この子ったら…! 「年端もゆかない子だから、私はちゃんと保護者の了解をとって連れてきたもん。だから誘拐じゃないのー」 「えーーー!?」 知らなかった! と大きな瞳をますます大きくして、身を乗り出してくる。 「何て言って連れてきたの? 何てっ!? 教えてっ!」 「ふふふ」 そんな大事な思い出は秘密に決まっているでしょう? 「教えてあげない。内緒。絶対言わない」 「あかねちゃん意地悪だー」 ぷっと膨れた表情もまた可愛くて、ああ、こんな妹ができて泰明さんが羨ましいわと、カップから立ち上る湯気に目線を落とす。 「ねぇねぇ―――あかねちゃん」 「なぁに?」 ふっと挙げた視線の先に、彼女の深い碧の瞳。 それに囚われた―――視界の端で、曇天の空に小さな鳥が飛んでいるのが映る。木の枝と同じように、鈍い逆光でその姿は黒い影となって目にやきついて 「あかねちゃんも、すぐに―――」 鈍い銀色の空。 まるで、銀色の海を渡る影絵の鳥。羽音は聴こえない。 影絵の鳥は小さくて、銀色の空も遠くて、地上は人がつくりだす喧騒に包まれているから。 「あかねちゃんも―――すぐに、私のお姉ちゃんになってくれるんでしょう?」 「――――」 「あかねちゃん…?」 「あ、うん…もう少ししたら…かな?」 「へへへ…嬉しい」 こうやって何のてらいもなく見せてくれる笑顔は、はっとするほど鮮やかな彩。 まっすぐ届く温かい光。 春は名のみの鈍色の空の下。 彼女の笑顔は…ちょっと蒲公英に似てる。 ** ** ** W白神子会議。 よっしゃー!! 泰明ちゃんのところも、しっかり嫁入りさせますぞー! おおー!(変な気合) |